個人的耽美論 in はてな

ようこそ我が城へ

絶歌

はじめにー





こちらの本は、著者「少年A」が自ら犯した衝撃的な事件に言及し、死にたくても生きる道を歩んできた苦悩や過程を綴った身勝手極まりない、読者無視の自己満足を叫んだ本であります。

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只今別記事を編集中だったのですが、1つの事にしか集中出来ない性分の為、不意に借りる事が出来た本作を読み、その叫びを受け止め、自分なりの意見や感想を書いていきます。

自分なりの意見ー
今回はシリアスです。僕も「叫び」として、是か非か、はっきりと本音を書きます。
不適切な表現や気分を害する表記もあるかもしれません。
生半可な気持ちではありませんので、気の進まない方、いつものギャグ路線希望の方は、ここから先に進まず別記事に飛んで頂けると幸いです。かなり長々と書いておりますので。





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wiki
『絶歌』(ぜっか)とは2015年6月11日に太田出版から出版された書籍。1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件の加害者の男性が、「元少年A」の名義で、事件にいたる経緯、犯行後の社会復帰にいたる過程を綴った手記。初版は10万部。
なお、太田出版は6月17日、今後も出版を継続する意向を公式ウェブサイトで表明し、増刷する予定。

本書の出版に当たっては遺族のひとりが批判したことに起因し、出版の是非に対して過剰な反応が見られ、識者や世論においても本の出版や内容を巡って賛否が割れるなど、様々な反響を呼んだ。ある被害者の父親は版元である太田出版に対して抗議しており、速やかな回収を求めた。

GLAYのHISASHIは、6月11日にInstagramにこの書籍の表紙の画像を投稿したが、これに対して数多くの批判が寄せられたために投稿した画像を削除した。




今最も問題視されているこちらの本について感想ですが、その前に、各方面からの見解等を記載します。
 



現代ビジネス


長谷川豊氏関連



某氏So-netブログ



某氏exciteブログ




最初に触れておかなければならないのは、本の内容云々よりも世間の反応。
これらのURLはほんの一部だが、実に賑やか、賛否両論。これから先何ヵ月、何年、何十年と物議を醸し出す作品であり、人前で感想を述べる時はいかに冷静に評価するかが重要では無いかと思う。

感情的に
「遺族の気持ちを考えろ」
「印税目的か」
「出版社潰れてしまえばいいのに」
等々喚き立てる事は可能だが、この本の内容には深く考えさせられる





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もし純粋無垢な子供に
「なぜ人を殺してはいけないの?」
と質問されたら、皆様はどうお答えになるでしょうか。





ふと、好きな「DEATH NOTE」の内容を思い出す。
原作 - 大場つぐみ・作画 - 小畑健による日本の少年漫画作品。2003年12月から2006年5月まで「週刊少年ジャンプ」に連載。名前を書いた人間を死なせることができるという死神のノート「デスノート」を使って犯罪者を抹殺し、理想の世界を作り上げようとする夜神月と、世界一の名探偵・Lたちによる頭脳戦を描く作品。
顔と名前さえ解ればそのノートに名前を書くだけでその者を死に至らしめる事が出来る、という非現実的アイテムだが、日本一難関な大学に通い早々に司法試験に合格、と天才的な頭脳を持つ主人公がこのノートを手にする事から物語が始まる。
この世には、誰かを殺害し尚、無罪放免となりのうのうと暮らす輩も多い。法律を良く学び、だからこそ法律上の限界を知る主人公は、ノートを使ってそうした輩に「正義」の名の下、裁きを下して行く。

初めはこの主人公の思う通り、こんなノートがあるなら多分自分も使いまくっていただろうな、と深く感じ入った。
しかし、警察官である主人公の父の言葉
「法律は完璧では無い。なぜなら作っているのが人間だから、完璧な物にはなり得ない。だが法律は、人類の努力の積み重ねの証なのだ」
という一節が心に響いた。

確かに「生きるに値しない」人間、「死ねばいいのに」とさえ思う人間は誰にでも思い当たるだろう。だか、基本的に自分の都合上でそう思う事が圧倒的に多い訳で、この上なく身勝手で幼稚で端的な浅慮に過ぎない。

いかなる場合であっても「殺人は罪」であり、最も重いものである。
法律がそう成っている以上、人間は従わなければならない。 

「だから人を殺してはいけない。」

そのように、子供には伝えるべきだろうか。



偉大なる政治家の方々、弁護士の先生方、医者や大企業の代表取締役の方々、各界著名人の方々、あらゆる「人の上に立つ立場」の方々に改めて問う。





貴殿方は、この子供の質問にどうお答えになりますか?





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この本の中から深く考えさせられた事が1つ。





「貴方は他人事だと思って居ませんか?」





以前、ブログを始めて間もない頃に書いた「インターネット」という記事がある。

基本的に暗い話やシリアスな話題は避けて更新して行こうと決めていたのだが、どうしてもインターネットの普及に伴った犯罪や危険画像の流出等が気掛かりで仕方ない。

僕の世代はパソコンはおろか携帯電話もほとんど無く、「ポケベル」が思春期の必須アイテムだった。それまでは、思いは手紙か電話で伝え、解らない事は図書館なり本屋なりで調べ、知識ある者に教えを乞う。
辞書に乗っていない「スーパーマリオブラザーズ7面の攻略」は運良くクリアした友達に聞いたり「攻略本」を買ったりした。
そんな中「テレビ」は、それこそ最大かつ最速の情報源であり、夜な夜なドラマやらお笑い番組やらに没頭し、次の日の友達との会話の中心となった。テレビや本、そして教授による知識の共有こそが、コミュニケーションの手段であり核となる物であった。

現代の子供は「インターネット」を駆使し、解らない事はほんの数秒で調べ上げる事が出来る。誰かに話し掛けなくとも、一瞬にして知識を得る事が出来る。しかも携帯電話という、ほとんど場所を選ばないアイテムによって。
子供の頃に描いた
「~が出来たら良いのに」
「~があったら便利なのに」
という夢は、様々な人の努力により実現され、当然の事の様に日常で利用されている。

つまり、不自由な事が圧倒的に少なくなり、有益に活かせば多くの人の助けとなる「インターネット」が普及した事は世界的な革新であると言えるが、実際は教育者の目の届かない落とし穴が余りにも多すぎる

年端も行かぬ子供が凶悪テロ事件の画像や犯行が行われている動画を観る事だって難しくは無い。つまり誰にでも少年Aになり得る可能性があるという事を、しっかりと心に突き刺しておくべきなのだ。

他人事では無いのです。

こんな事ならパソコンも携帯電話も無い、一切の最新技術の行き届かない田舎で子供を育てた方が良いのではないか。
そう思ったりもします。
でも、今まで生きてきた中で感じた事、それは

この世は残酷である

という事。よりシビアに、より身勝手に成っていく人間が増える中で、どの様にして生きて行くのか。どうすれば強い心を持って人生を送る事が出来るのか。
それを子供達に真摯に伝える事こそが親としての義務であり、使命だと思う。





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「愛する人を殺されたら貴方はどうしますか?」





日本国内でも屈指の精神鑑定チームによって少年Aの分析が行われ、「病気」と判定された。
に守られ、実名や顔が公表される事も無く、30代になる現在まで様々な人の助けを得て「更正」の道を歩んで来た経緯が綴られている。

遺族の方々の心痛は想像を絶するものであり、「異常者」と判定された為「お咎め無し」では無論納得の行くものでは無い。

自分なら………

この事件の遺族の方々の様に振る舞えるだろうか。

半狂乱となってその人間を殺しに行くかもしれない。



自分の命よりも大切なもの。

親にとって我が子はそういう存在だし、災厄が我が子に降り掛かるなら命懸けで守るだろう。

しかし、ある日突然、奪われたのだ。

未来を、生きる事を、希望を。

たった14歳のガキに。



……しかし、一番大切な事を忘れてはならない。

各方面の見解の中にもあったが、

同じ惨劇を二度と繰り返さない事」。

復讐は良く音楽や演劇等の題材にもなるが、誰かを殺した人間を殺したとしても、そこに残るのは


である。

亡くなった人は、現代の医学をもってしても生き返らせる事は出来ない。





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命の尊さー

以前、テレビを何となく付けて聞き流していた時に目に止まった番組があった。
多少記憶が曖昧なのでそちらに関連する記事を載せます。

とある小学校で、学校に「小ブタ」を受け入れ、みんなで愛情たっぷりに育てる。
大きく立派になったある日、それが「食用」の豚だという現実を突き付けられ、必死に「出荷」を拒む生徒達。
最終的には、日常で良く見る「お肉」にされてしまい、成長を見届けて来た生徒達は深く傷付く。

命の尊さを教える為ー

この「教育」には、それこそ賛否両論が渦巻き大炎上となったのだが、皆様はどうお考えだろうか。





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「人を殺してはいけない」
のに牛や豚や魚、命を持つ植物も然り、人間は人間の都合で他の命を奪って行く。

何故なのか。もしその質問を幼い子供に投げ掛けられたら、大人はどう答えるのだろうか。



「生きる」と言う事。

「死ぬ」と言う事。



命あるものは必ず死を迎える。
この残酷な世に生きて行く事は非情であり、こんな世なら生きていても仕方ない。
僕には、そう言って目の前で自殺を謀られた経験がある。目の前、と言っても電話越しだが。
何を言ったかはっきりと覚えてはいないが、必死に説得し、その時は何とか食い止める事が出来た。
その人はいわゆる「鬱」を引き起こす病に侵されており、今までの人生、頼ったり信じたりしてきた人にことごとく去られ、その原因となる病気を憎み、度々現世を諦めたくなるのだと言っていた。

しかし、「自殺」は最後の逃げであり、完遂は死を意味する。
死は、「無」を意味する。
「無」とは、何も残らない状態。


病から来る精神病に関して、自分は無知だった。病自体にも興味が無く、自殺は最も卑怯な逃げ方だと思っていた。

障害を抱えても、大病を患っていても、生きたい、普通の生活がしたい、と思っている人が居る。必死になって、生きたい、生きたい、と思っているのに余命があと僅かな人が居る。

自殺と言うのは、自らの可能性を潰し、そういった人達を冒涜する卑劣な行為だと、ずっと思って来た。

しかし、自らの意思ではどうにもならない事もあるのだ。
健常者が何を語り掛けても、通じない事もあるのだ。



「生きる」と言う事。

「死ぬ」と言う事。



人間は生きる為、他を補食する。生物学上、当然の生理的な行動であり、人間よりも強い者が現れた時点で、その立場は逆転する。

食材には元々「命」があった訳で、それを奪った以上、人間はその分まで生きるべきだと思う。

こんな大袈裟な事を言うと何かの宗教家なんじゃないかとお思いの方もいらっしゃるかもしれないが、動物然り、植物然り、自分のエネルギーとなってくれたもの達に感謝する瞬間があっても、良いのではないだろうか。


「殺人犯の異常者」は、自らが奪った命の分まで生きる道を与えられ、世間に散々に罵倒を浴びせられ、後ろ指を刺され、死んだ方が楽になれる、と思うほど長く辛い人生を歩まなければならない。

それが「罪を背負う事」。



当然の事だが、命をたやすく奪ってはいけない。自分が生きる為に誰かを殺めなければならない戦場や刑法第37条「緊急避難」等、特殊な場面を除いては。
個人の都合で人の命を奪うという事は、絶対に赦される行為ではない。いかなる場合であっても、殺人は最も重い罪である。


冒頭に挙げた質問、
「なぜ人を殺してはいけないの?」
の答えは、この時点で様々に別れているだろう。

「貴方は他人事だと思って居ませんか?」

「愛する人を殺されたら貴方はどうしますか?」

これらの問い以外にも、様々な事を考えさせられた今回の著書、「絶歌」は、大人として立ち振舞う者なら読むべきかもしれない。

ただし、覚悟の上で。

犯罪者のリアルな声を聞く覚悟。
グロテスクな表現を体感する覚悟。
絶対に犯罪を抑止する覚悟。
自らの子供や部下、新人をまっとうに育て上げる覚悟。
自分の意見を持つ覚悟。





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GLAY HISASHIの件についてー

有名人は辛い。その言動や行動が世間に知れ渡り、たった一度のミスがイメージダウンに繋がり自らの生活に支障を来す。
今回の件は「ミス」とは言い難いが、世間の先入観や浅はかな知識が誤解を生み、散々な言われ方をして本人も当惑している事と思う。
HISASHIの意図は何処にあったのだろうか。
知名度がある以上、一般人の様に安易に振る舞えない。本人の意思とは裏腹に、物議を醸し出す言動は慎み、イメージアップに努めなければならないのが芸能人。
この件についても色々と考えさせられる。
 









1948年の世界人権宣言第21条、1976年の市民的及び政治的権利に関する国際規約第19条第2項にも定められているもので、近年、テロリストによる事件等でその意義に注目が集まっている。

人間は何を表現しても許されるのだろうか。

ある特定の人間にのみ許されない、という事があっても良いのだろうか。

この表現の自由という観点から言えば、本作品の出版を妨げる事は出来ない。かと言って誰が善悪の判断を下すのか。

表現の自由」があるからと言っても、卑猥な映画や内臓が飛び出すスプラッター物、その他品性に欠ける視覚的媒体は多い。
こんな世の中で、特異な人間が生まれ無い方が不思議だ。

2015年にもなると言うのに、武装して力を得たつもりで、当て付けの神の名の下に罪の無い人間を葬る者。

逆らえない弱者・小動物を次々になぶり、手に掛け、優越感や快楽に浸る者。

直接暴力をふるう訳では無いが、インターネット上でハッキングや嫌がらせを繰り返し精神的に特定の人間を追い詰めて愉しんでいる者。

このカオスと化した世に、どのようにして教育者達は立ち向かい、子供達を育てて行くのか。

この世に生を受けた子供達は、全人類の希望であり、ダイヤ以上の原石であり、未来そのものである。

強き立場の者は弱き立場の者を護り、正しき道へと導く義務がある。
自分より弱き立場の者を弾圧し自己満足の為に利用する事は、人間として最低の行いでありこれ以上の貶し言葉は持ち得ない。





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最後に。





長々と起承転結も無く纏まりの無い事を書いて来ましたが、本作品は僕に人間としての「生と死」を再考し、改めて暴力の無い世界を願い、自分に出来る事を精一杯する事を決意させました。

暴力の無い世界、優しい世界、温かい世界…

現実的には99.9%無理かもしれない。

でも、0.1%の力に成れるなら、その僅かな力に自分が成る事が出来るなら、誰かの為に成りたい。



自分以外の人を思う心。

誰かを大切だと思う心。

感謝する心。





冒頭に挙げた

「なぜ人を殺してはいけないの?」

という問いに対しての僕なりの答えは、


「人間らしいそういった心が無くなってしまうから。」

そして

「闇しか生まないから。」



抽象的かつ中距離な答えが故に、沢山説明する余地があるだろうし、その子供と沢山お話をして解り合える事もあるだろう。










兄よ。

札幌から約40km離れた所で3人の娘と格闘の日々を送る親愛なる我が実兄よ。

共にその子達を、しっかり見守り、育てていこうな。

俺はいつ結婚するか解らんからな(笑)















Fin